北海道に残る幕末の海軍・咸臨丸
咸臨丸は、日本人の手で初めて太平洋を横断した幕末の蒸気船です。このときの目的は日米修好友好条約を締結する幕府使節の護衛のためにでした。司令官は木村摂津守、艦長は勝海舟でした。福沢諭吉が乗っていたことでも知られています。勝海舟は自分が最高指揮官として渡米するものと思っていたのに上役に海軍には素人の木村摂津守を頂くことになったためふて腐れてしまい、アメリカまでの航海中、艦長室からあまり出てきませんでした(「海舟座談」の木村摂津守のあとがきより)。一般には船酔いがひどくて艦長室から出てこなかったと伝えられています。
幕末、咸臨丸は幕府海軍の軍艦として活躍しましたが、戊辰戦争の頃には老朽化が甚だしかったようです。機関の痛みが特に激しかったので蒸気機関を取り外してしまい、慶応2年(1866)以降は風帆船となりました。江戸幕府の瓦解後の慶応4年(1968)、当時海軍副総裁だった榎本武揚が江戸から蝦夷地へ向かった航海中に時化で榎本艦隊とはぐれてしまい、千葉県銚子沖から静岡県清水沖まで流されてしまって清水沖で難破してしまいました。榎本艦隊を追ってきた明治政府軍が咸臨丸を接収し、以後は明治政府の所有する船となりました。接収のとき、明治政府軍は多数の乗組員を虐殺し、死体を放置したので、清水の海岸は死臭で満ちました。みかねた清水の次郎長が侠気で乗組員の遺体を埋葬しました。
明治政府は咸臨丸を輸送船として、北海道の開拓のための物資の輸送に使いました。本州と北海道を結ぶ公開の途中、津軽海峡の北海道側、木古内町の沖合で遭難し沈没しました。国道228を函館から松前に向かって進むと、上磯町から木古内町にはいるとすぐに左手にサラキ岬があります。ここに咸臨丸と書かれた大きな看板や標識が建っています。
正式には幕府御軍艦咸臨ですが、太平洋の横断という劇的な仕事を達成したことからか擬人化され、幕末の当時から咸臨丸と「丸」の字がつけられていました。 |